死んだ山羊の墓2

『ビギニング・ビギニング』というタイトルの長くなりそうな漫画を描いているし、同時に『病気のアールリナ』という、やはり長くなる漫画を描いている。『エルビス・プレスリーのおはぎ』以来すっかり「短編より長いやつのほうがぼくにとってナイスだな」という気持ちになっている。どうもぼくは描きたいものをちゃんと描くには100ページくらいの分量が必要みたいで。 短編より長編のがより多くのことが言える、というのはあまり重要ではなく、それよりも長い話を描くと発生するノイズこそがめちゃめちゃ面白いような気がする。しかし修行が足りてないのでどうしてもノイズを削りたくなってしまう。『エルビス・プレスリーのおはぎ』はかなり削ってしまったし『病気のアールリナ』もかなり削ってしまっている。でも『ビギニング・ビギニング』は作品の大部分がノイズであるような感じでノイズとノイズを意味で繋いだようなものに今のところなっているのでニコニコです。明日には違う気持ちになっているような気もするが、頑張るぞ〜。

人生の大部分はノイズで、ノイズとノイズを意味で繋いだものが人生なのだと思う。トマス・ピンチョンの短編のどれかに「つまり、な。それは何かって言えば、おれたちの言うことの大部分なんて、まあ、大部分ノイズだよな」というセリフがあり、我々は言うこともする事も、その大部分はノイズなのだ。創作は意味だけをギュギュッとまるめて世に出せるのですごいですね。でもあなたがどんなに意味を込めて創作しても、あなたの人生は大部分がノイズですよ、どうします?先程ぼくは「ノイズこそがめちゃめちゃ面白い」と書いたけど、それは創作においての話であり実生活のノイズなんてクソでしょ。ピンチョンはどう思ってたのかな、これについて何か書いてたっけ?読んだのが昔すぎて忘れてしまいました。私は「死にましょう」と言いたくなってしまう。終わりです。